PeaceだったりHiLightだったり

instagramの画像なんかをもってきて、そこから話をふくらませたりします。

読書は好きでも読書感想文は苦手だ。

金閣寺を読んだ

https://www.instagram.com/p/BeAwNSUAL54/

#三島由紀夫 #金閣寺 #yukiomishima #kinkakujiあまり馴染みのなかった三島由紀夫を読んだ。これはすごい、数時間で全部読んでしまった。読んでいて恐ろしくなるほどの人間の内面。

 

子供の頃から読書感想文が書けなかった

アマゾンのレビューでも、個人のブログでも、読書感想文を募るようなサイトでも、読書感想文(というか、ただの読書メモも多いですが)はたくさんあって、よくそんなに書けるなと感心しています。嫌味でもなんでもなく。

私は子供の頃から読書感想文が苦手で、読書後の余韻(もやっとした感覚だったり、居ても立ってもいられないような感覚だったり、深い感銘のようなものだったり、いやーな感じだったり)のようなものを文章で表現できたことがありません。

もちろんそれは私の文章能力や表現力や構成力など、読んだ本について感じたことを他人に的確に伝える技術が今も昔も無かったということなのですから、ちゃんと書けるようになれれば良いのですが、、、、すごくむずかしいですね。

レビューと読書感想はちょっと違う

ちなみにアマゾンのレビューなどは(あまり気にしたことがありませんが)、読書感想文とは少し違っていて、「商品としての書籍」に対する満足度、という面の方が強いのかもしれないですね。

レビューにとって大事なのは本の内容や表現してあることよりも、極めて浅いレベルの「アラ探しをしたうえでの満足度」という印象です。やっぱり★の数で小説を評価したりするのは難しいですよ。家電やレストランも本質的には同じですが、その商品の質と価格による判断でしかないと考えられます。

アマゾンは買い物のサイトなのだから当たり前の話ですけれど。

なぜ学校では読書感想文を書かせるのだろうか

未だに疑問なのは、学校での読書感想文という「課題」です。

夏休みなどにその「難題」を「苦行」を出されてしまうことが多かったですよね。

アレっていまもあるのかな?

学校には意味不明なものが今も昔も溢れていると思いますが、読書感想文もそのひとつだと思います。

アレって要するに先生の側の立場から「大人の勧める本を読め。読んだか?本当か?それなら感想を書いてみろ。書けない?じゃあ読んでないのだろう?早く読めよ、二十四の瞳!」ということなのだろうと考えていました。子供の頃から。

なんで先生は私が本を読んだということを信じなかったのかな。いつもふざけてばかりのお調子者だからだったからでしょうか。

 

「本(物語、報告、歴史など)を読み、その内容を理解して、感想を自分なりに書く」という行為自体は、教育の中でとても重要だと思います。

理解力、文章能力、構成力など、どれもできるに越したことはありません。

学校からすると、もちろん教育の一環として全く淀みのない理由で読書感想文を書かせるのでしょう。

でもどうして読書感想文が苦手になるのか。

  1. 指定図書の中には読みたい本がない
  2. そもそも読書感想文なんて書いたことがない子供は、書き方がわからない
  3. わからないからとりあえずストーリーをツラツラと書き連ねる
  4. 物語の結末を重要視しがち(めでたしめでたし 、で終わるストーリーには子供は慣れすぎている)
  5. 結局「素直に書く」のではなくて、先生に褒められるための感想を書くので、つまらないものになりがち。子供の目で見たピュアな感想が喜ばれることを皆が知ることになる

と、読書感想文をここまで卑下することもないのですが、私の印象はずっとこんな感じです。

少なくない人たちが共感してくれるのではないかと思います。

たぶん先生だって課題図書を全部読んでるわけじゃなし。先生自身が読んだことのない本の「感想」について点数をつけるなんて、そんな離れ技、逆にすごいっすよ。

もしかして先生たちは「読書感想文への対応マニュアル」みたいなのでも持っているのかな。「これ系の本に対する感想は、こういう感じならOK」とか。

いや、そんな面倒な事するまでもないか、子供が書く感想なんてすぐに読めちゃうしね。

読書後のモヤモヤがいつまでも心に残るのはいいことだ

言葉にできない、なんだかわからない、圧倒された、こんなの読んだことない、すごい本の気がする

そういう感覚ってあると思います。本を読むと、少なからず。

だって自分の知らないことが書いてあるから読むのですから。知ってることを読んでもそういう感覚にならないですよね。

そして、その「よくわかない」をすぐに言葉にできるというのは、やっぱり特殊な技能だと思うんです。

それだけでメシを食っていけるかというとわかりませんが、書評ってのはそういうことなのではないかと思います。もちろん「読書感想文」からはかなり遠いのでしょうけれど、まったく的外れでもないのではないかな。

私たちのような凡人が「うーん、モヤモヤ」と感じていることを、「こういうことだろう?」と、きちんと言語化できる、と。

じゃあ凡人はどうすれば?と思いますよね。

やっぱり大事なのはモヤモヤがいつかクリアになるまで、放っておくことではないでしょうか。

それはいつかクリアになるかもしれないし、永遠に私の心の奥でモヤモヤとして存在剃るのかもしれないし、誰にも分からないことです。でもそれでいいのかもね。

だって、何かをクリアにするために本を読んでいるわけではないでしょう。

大切なモヤモヤが残る「金閣寺」という金字塔

やっと画像の「金閣寺」です。

長々と言い訳を書いたのは、どういう感想も書けないと思ったからです。

恥ずかしながら、三島由紀夫の小説はほとんど読んだことがありません。「仮面の告白」「潮騒」だけは読んだことがあるので、「金閣寺」で三冊目ですね。

最初から「日本文学に残る傑作!」という先入観から入ることになりました。

こういう「すでに傑作と分かっている作品」への評価は本当に難しい。

よく分からない新人作家の、「ほとんど誰も読んだことのない作品」への評価って、恐れること無く素直に言えますよね。

でも名作、いや傑作に対して何を書けばいいものやらわかりません。

だから学校の課題図書は最初からハードルが高く設定されているのだ、と、まだ言い訳をしてみる。

彼は金閣寺に火を放たなければならなかったのか

吃音の青年僧侶が金閣に火を放つまでを、その青年の少年時代から丁寧に書かれてあるのです。

実際におきた事件をモデルにした話ではありますが、カポーティの「冷血」とは異なり、その話をそのまま書いた小説ではありません。

その事件を題材にしながらも、三島由紀夫はその事件を「カタチだけ」用いて、あくまでもオリジナルのストーリーにしています(だそうです。この辺りの詳しいことはwikiなどで)。

ある1人の人間の育った環境から現在に至るまで、そして金閣寺に火をつける事を思い立ち、実際に行動に移してしまうまでには、何か彼を突き動かす強烈な衝動があったのでしょうか?

吃音である。女性に対するコンプレックスがある。母の不貞。脚に障がいを持つ友人の強烈な生き方。父から金閣寺は美しいと子供の頃から刷り込まれていた。老師の舞妓遊び。そして自分は童貞であるという事実。

これだけ挙げるだけで、疲れてしまいそうです。

 

青年僧が心に抱えるものは、これだけではありません。

戦争、そして終戦です。

三島由紀夫にとってもそれは強烈なものだったのでしょう。

 

金閣寺は「美しいもの」の象徴として青年僧侶の前にそびえ立つのです。

そして、「燃やしてしまうしかない」ものとなるのですが、、、、

丁寧に説明ばかり書いてある小説ならば、「なぜ燃やしてしまわなければならないのか」が、ひとつひとつ列挙してあり、それぞれが親切な「解説」になっているに違いありません。実際にそういうものを「よい小説」と言う人もいるでしょう。

しかし、この作品の中では、その「詳しい解説」はありません。

 

なぜ火をつける必要があるの?

それは、この小説をもう一度読んでみましょう、そして考えてみましょう、ということになるのですね。

難しいです、試されます。何年かその考えを放置し、もう一度小説に立ち戻る、というのもいいでしょうね。その頃には、私もあなたも今とは違う人間になっているでしょうから、理解できる、かもしれません。

火を放ったあとで

皮肉なことに、生きることへの絶望のようなものを感じていた青年は、燃え上がる金閣寺を見ながら「生きよう」と強く思うのでありました。

身勝手?めちゃくちゃ?

いや、そう思ってしまう人間というものを、そういう思いに至る人の思考を、理解してみるというのが大事ではないでしょうか。

 

いや、、、、、、読書の感想は難しい。。。。