デビッド・ボウイが歌う「イマジン」
ジョン・レノンの命日に
デビッド・ボウイ展があったのがもう1年も前なのか、と感傷に浸っている今日このごろ
毎年ジョンの命日は、その日の夜に思い出します
あ、そういえば、ってな感じです。この20年くらい。
ジョン・レノンが凶弾に倒れたとき、まだ私は子供でしたから、そんなこと全然知りませんでした。そのことを知ったのはそれから10年近くも経ってからのことでした。
その時の自分が何をしていたのか?なんてもう思い出せません。
だからジョンの命日と言っても、なんとなくピンとこない。ジョンの曲ばかり聴くわけでもなく、ビートルズの曲を改めて聴くわけでもなく、だって一年中ビートルズの音楽は普通に聴いているのだから、改めて今日という日に聴くという気にならないのは、やはり後追い世代だからでしょうか。というかそんな人のほうが圧倒的に多い世の中だと思いますけれど、わざわざそんなことを口にする必要もないでしょうか。
追悼するコンサートやイベントに出席すれば何か違うものがあるのでしょう。周囲には気持ちを分け合える人たちがいるはずですから。
デビッド・ボウイはイマジンを歌った
1983年あたりの歌唱すね。髪型やマイクの形やバックバンドのメンバーでなんとなくわかります。
熱唱という形容がふさわしい、心から絞り出す素晴らしいパフォーマンスだと感じました。ボウイが心から振り絞るような歌い方をする曲は「"Heros"」という大名曲も同じですね。なんとなく両者には共通点があるように思えてなりません。
それは何か?
「心の自由」ではないでしょうか。
人は色々な制約の中で生きている。
国境、宗教、民族、貧富、それらは私たちを分断する壁にほかならない。
ではその壁の前では私たちは無力なのでしょうか?
もちろん無力です。だれもその壁の前では、降り注ぐ銃弾に倒れるだけだ、とボウイは歌います。
でも、銃弾を浴びながらもボウイは「何も私たちを引き裂くことはできない」と歌うのでした。
イマジンの穏やかな曲調とは随分違いますが、それでもここで歌われるのは「自由」としか言いようがないものでしょう。
ボウイはイマジンに何を感じていたのでしょうか。
ボウイがグラム時代からずっと表現しようとしていた「自由」は、ジョン・レノンがイマジンで歌った「自由」とピッタリ重なる思いがあったのではないかと私は感じました。
イマジンの底力
やれ反戦歌だの、やれお花畑のテーマだの、さんざんな誹謗中傷を受けることにもなるイマジン。
それは夢想家の勝手な妄想なのでしょうか?
私はそこに納得できない。ニール・ヤングがイラク戦争のときにイマジンを歌った時に冷笑した人たちは想像力にかけているとしか思えない。
イマジンは「反戦」という側面ももちろんあると思います。だけどそれだけじゃない。
ひとりひとりの心のあり方の制約を取っ払ってしまおうという想像力を喚起する力のある曲だと思います。
現代にイマジンは有効か
わかりません。2017年に、そして2018年にイマジンの考え方が有効なのか、誰にもわかりません。
「広い心で、他者を受け入れよう」という考えを否定してしまう人も多い世の中です。イマジンと反対の考え方がメインストリームとも言えます。
それでも、久しぶりにイマジンを聴いた人が「あ、この曲ってこういうことだったのかも。。。。」と少しでも考えることで、少しでも世の中が良くなれば、、と思います。